哲学と物理は同じ?
マトリックスとデカルト編
僕は以前、哲学に興味を持っていた。
特に、デカルトには大きな思い入れがある。大学のフランス語の授業だっただろうか、意図せずして聞いたデカルトの話は、強烈なインパクトとして記憶に残ることとなった。
それまでは哲学というものに全く興味はなかったけど、その授業で話されたものは、これまで僕が持っていた哲学のイメージとはかけ離れたものだった。先生がいうには「デカルトはマトリックスで理解できる」のだった。
堅苦しいものを、漫画や映画で理解しようというのは、当時そこまで流行っていなかったかもしれないが、僕にとっては新鮮だった。これぞ大学の勉強なんだと思った。
さて、デカルトとマトリックス。
マトリックスはどういう話であったか。
銃弾を身体を後ろに反らしながら避けるシーンはとても有名だ。当時はTVのコマーシャルや、いろんな芸能人が真似をして、映画を観ていなくても「そのシーンは知っている」という人は多かったと思う。かくいう僕もそのひとりだった。しかし、あのシーンはそこまで重要なシーンではなかった。変わった避け方をしているので、目を引き付けるという意味では重要だったのかもしれないが、ストーリー上あってもなくてもいいような感じがした。(というか、結局すべての銃弾は避けきれず、足に当たってしまうのだ!)
マトリックスの世界では機械が人間たちを支配している世界だ。どのように支配しているかというと、量産された人間をカプセルに入れ、夢を見させる。そのエネルギーを機会が利用しているというものだったと思う。
単なるSFというか、ロボットがいずれ人間の知能を超えてくるかもしれないぞ、という警鐘を込めたイマジネーション豊かな作者の描いた作品だと思っていた。しかし、どうやらまたまた違った視点でこの映画を観ることができるようだ。先生いわく、デカルトはマトリックスの世界のように、人間は機械によって夢を見させられているかもしれない、ことを示唆しているというのだ。
これがデカルトの「われ思う故に我あり」の結論ではない。人間は機械に操られているのかもしれない、というのは、その結論に至るまでに考えられた、ひとつの可能性である。
始めに言ってしまえば、「われ思う故に我あり」というのは、「自分がなにか思考している間は、少なくとも自分は存在する」ということだ。言い換えれば、「自分が思考していないときは、機械に操られている可能性がある」ということだそうだ。
なぜそう言えるのだろうか。
どうやらデカルトはとても疑い深い性格だったようだ。だからこそ数学や哲学の分野で功績を残せたのだと思うけど、ある時、デカルトは本当に間違いのないものだけを考えようと努めた。間違いのあるものをできるだけ排除しようと試みたのだ。その過程で、彼は「人間の思考」さえも信用できるものではない、と考えたのだった。なぜなら人間の脳は「思い違い」や「記憶違い」をするからである。
ある人は、こう考えるかもしれない。
「デカルトは、“自分がなにか思考している間は、少なくとも自分は存在する”と人間の思考を肯定していたのではないのか」と思うかもしれない。自分で否定しといて、それを結論に持ってくるとはどういうことだ、と。でもそれは問題ない。たしかにデカルトは人間の思考を信用していないかもしれないけど、「われ思う故に我あり」というのは人間の存在に関することで、その思考が信用できるかどうかは問題ではないのだ。
人間の脳を信用しなくなったデカルトは、果たして何を真実と捉えることができるのだろうか。デカルトを含めて、人間の得られる情報というのはすべて目・鼻・口などの感覚器官を通って脳に送られてくる。感覚器官という複数のフィルターを通ってくる情報は、デカルトとしては真実として認めたくないだろうし、そもそも人間の脳が「思い違い」するかもしれないとしているので、全くもって真実といえるものがない。
そこで彼は、自分が感覚器官から得る情報の真実性について諦めることにした。何ひとつ、100%信用できるものは何もないと。ここで、ひとつのシナリオとして「人間は機械に操られている」可能性もあるということだ。人間は現実と幻想を区別することはできないと言われている。そりゃそうだ。区別できないから、幻想を見る人たちは病気扱いされるのだ。
現実と幻想の区別がつかない。今座っているイスも、叩いているキーボードも、もしかしたら現実には存在しないかもしれない。それを証明するのはとても難しいように思える。友だちに「それは現実だよ」と言われたとしても、その友達が「幻想を見ていない」とは言い切れないし、そもそもその友達自体が「幻想の一部」である可能性はないとは言えないのだ。そして、その情報を受け取っている感覚器官である自分の身体、それさえも疑おうと思えば疑うことができる。感覚器官を通ってくる情報は脳に集約されるのだから、人間の脳みそだけが水槽に入れられ、機械にその脳みそをチクチクされ、ただ「夢」という幻想を現実と思わされているだけかもしれないのだ。
当時デカルトが、機械に支配されるシナリオを描いていたかどうかはわからない。重要なのは、マトリックスを作った人たちが、デカルトの哲学をよく理解していた、もしくは、似た思想を持っていた可能性があるということと、マトリックスはデカルトを理解するのにとてもよい映画だということだ。
ここまでの話を聞くと、空しい気分になってくる。僕たちが知りえる情報の確実性は一向に100%になることはなく、あげくに自分は脳みそしか存在していないかもしれないと言われているのだ。でも僕は、みんなをネガティブな気持ちにするために、この説明をしているわけではない。哲学とはどういうものか。考えるとはどういうことかを理解した、僕の経験を話しているのである。
まだ「われ思う故に我あり」という結論に至っていない。この命題は、これまで話した状況から得られるもっとも確からしい“事実”だ。これまで「すべての情報は確実性がない」と言ってきた。それは人間の脳が、ときどき「思い違い」などをする信用できないもので、最悪の場合、マトリックスの世界のように、機械にただ夢を見せられている存在かもしれないということだった。しかし、ここで絶対確かなことがある。それは、機械に夢を見せられている操られたものであるかもしれないけど、「操られる“対象”が存在する」ということだ。
身体もないかもしれない。脳みそをチクチクされているだけかもしれない。しかし、我々が何かを見たり、聞いたり、考えたりしているということは、そういうことができる脳みそが世界のどこかに存在するということなのだ。
ポイントは「自分がなにか思考している間」しか、自分(脳)の存在は確かじゃないということだ。自分が何も考えていない、とか、自分の意識がないときは、機械にチクチクされている脳みそも存在していない可能性があるので、常に自分が存在しているとは言えない。
だからデカルトはこう言った「われ思う故に我あり」
この話を聞いたときは、本当に視界が開けた気がした。目から鱗とはこのことか。
そこから哲学に興味を持ち、ドツボにはまってしまうことになるのだが、それはまた別の話。
(つづく)
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