死を考えるということ

Memento Mori

昔はどうだったかわからないけど、僕らの周りに“死”というものはあまりないように感じる。

死んでいる人の数が少なくなっているとか、平均寿命が延びているとかそういうことを言いたいのではなくて、できるだけ“死”に関わることを生活から遠ざけている。それは、縁起の悪いものを日常から遠ざけようとする意識からくるのだろうけど、死は誰にでもやってくる。

死において、自分は代替不可能な存在

おもしろい話を聞いた。

死というのは、自分にしかできないものだということ。考えてみれば当たり前のことだけれども、とても大切なことだ。人を殺しても、自分の死を他人が代わりに死んでくれたわけにはならない。死ぬことを誰かに託すことはできない。死ということに目を向けたとき、自分が唯一無二の存在であることを感じるのである。

僕たちは誰かに自分のポジションを取られてしまうかもしれないことに不安になることがある。

僕はサッカーをしていたので、ポジション争いの熾烈さを知っている。ある日突然来る、スタメン落ちの宣告。あれほど気分の良くない瞬間はない。自分のポジションを奪ったのが、後輩だったときには、尚更やるせない。思い出しただけでも悲しい気分になります。

スポーツに限らず、友人関係、恋人関係、仕事の関係…といった社会的な役割において、代わりがきくとかきかないとかいう話はよく考えることです。そういうことを考えると、「なんて自分は非力なんだろう」と感じてしまいます。どっかの会社の社長や、天才的なピアニストや、司会もバリバリできるお笑い芸人なんかは、代替不可能な人だけど、自分は他の人の人でもできる仕事しかできない。いや他人にやってもらった方が、良いパフォーマンスが期待できるかもしれない…と思ってしまう訳です。

全然悲しませるためにこれを書いているわけではなくて、そういう有名人であっても、社会的には代わりのきく存在なんです、と言いたいのです。どんなけ視聴率を稼ぐタレントであろうと、他の人に頼もうと思えば頼んでやってもらえるのです。絶対この人にしかできない社会的なポジションというのは存在しない

ある意味、人というのは本来的に唯一無二の存在なのかもしれません。これまでに上げたような有名人でさえも、僕のように毎日冴えずにパッとしない毎日を送ったとしても、これまで経験してきたことは、僕しか知らないことなんです。誰のものでもない、自分だけのもの。そしてさらに、“死”を意識することによって、より自分が代わりのきかない存在であることを認識することができると思います。

死は、自分の人生がどうであったか断定されるタイミング

さらに面白いのは、「死ぬときに自分が何者であるか決定される」ということです。

一瞬意味が分からないと思います。僕もそうでした。

有名人たちは死ぬときも有名人だろうし、それだけ多くの人に見守られながら死ぬんだ。しかし、違うシナリオがあったらどうだろう。

その有名人が、死ぬ前に暴行事件を起こしたとしよう。容疑が確定し、刑務所で服役中に死んでしまった。そうすると、その有名人はタレントというより犯罪者として認識されるでしょう。

また別のシナリオを。今度も、暴行事件を起こし刑務所で服役したが、服役中に死なず、刑期を終えて、その後作家に転身。タレントだったころの体験や服役中のエピソードを交えた作品を書いた。この時点で、彼が死ぬことになれば、タレントでも犯罪者でもなく、作家というものが彼の状態になると思う。

ハッブルさんの話

宇宙が広がっていることを、望遠鏡を使って突き止め、宇宙学の発展に貢献したハッブルさんは、最初から物理や宇宙の勉強をしていたわけではなかった。どうやら父親の言うことに逆らえなかったらしく、弁護士になることを余儀なくされた。まあ嫌々勉強していたのに、弁護士になれたのだから元々頭の良い人であったのだろうけど、宇宙を本格的に学び始めたのは、意外と後のことだったのだ。

結果として、ハッブルさんは歴史に名を残すような成果を上げたわけだけど、彼はとても興味深い言葉を残している。

“私は、一流の法律家であるよりは、二流の天文学者でありたい”

サイモン・シン『宇宙創成』

残された時間を有意義に使おう

こういう言葉を聞いたことないだろうか。

「明日死んでも後悔の無いように今日一日を過ごせ」

本当にその通りだ。

これまで言ったように、死を考えることはとても大事なことである。しかし普通に生きている間は全然それを意識しない。そればかりか、死なんてものは存在しないんじゃないかって考えているように、無駄な時間を過ごすこともある。自分の時間は限りあるものであると、人生の単位で考えられる人が、良い結果を残せるのも納得がいく。

そして、この言葉の本質は“残された時間を有意義に使おう”ということだけではなく、“死”を考えることで、自分は唯一無二の存在であることと、死が自分の人生がどんなものであったか決定されるタイミングでもあるということを教えてくれるのだった。

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